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そのゆるぎない表現に
世界が目を見張った
日本の感性が生んだ
真の国際的ピアニスト
待望の北海道初リサイタル!

武満徹とピアノ


 1930年東京の本郷に生まれた武満は、生後1ヶ月で父の仕事の関係から満州の大連に渡る。小学校入学のため7歳で単身帰国し、本郷曙町の伯母の家に引き取られらるが、翌年父を結核で失う。その少し前、東京にいるはずのない父が2度も校庭の隅に現れ、こちらを見つめていたのを徹少年は覚えている。伯母の2人の息子は召集されて戦死、それから伯母はいっさいを語らず、食物もとらず衰弱して亡くなる。死は幼い武満にとって親しい存在だった。
 母と妹2人の家庭は貧しく、ピアノにどうしても触れてみたいと思いつめていた武満は紙のピアノを作る。正確に同じサイズで鍵盤を描き、折りたたんでどこへでも持っていった。物言わぬ鍵盤からはたくさんの音が鳴り響いていた。
 中学校の階段教室に置かれたピアノは不謹慎な武満を拒みつづけた。鍵をこわすこともおっくうになり、学校は武満を嫌い、武満も学校を嫌った。満足に行かなかった中学校を卒業とも退学ともつかぬかたちで去って、音楽で生きたいのだと家人に告げたときから、武満は自活の道を探さなければならなかった。
 友人の家が経営する工場で働いていたころ、知人のつてで1台のフランス製ピアノ――安川加寿子がパリ留学から持ち帰ったピアノであることを後で知る――を借りることができた。そのプレイエルのピアノは美しい外観をもち、音はフランス語のように、いくぶん鼻にかかって響いた。プレイエルでは練習曲を弾く気になれず、ドビュッシーとフォーレを多く弾いた。処女作となる〈二つのレント〉はこのピアノで作曲されたのだ。月極めのピアノ代が滞るようになってピアノを手放さなければならなくなったが、ピアノ代は依然として滞納したままだった。
 それから武満は横浜の駐留軍のキャンプで働く。キャンプのホールにはヤマハのピアノが弾き手のないまま置いてあった。仕事はボーイで、夜だけ働けばよかったから、昼間は存分にピアノを鳴らして作曲に打ち込むことができた。まもなくそのキャンプは接収解除になりボーイの仕事も終わってしまったが、そのころから武満は音楽の道で生きていける可能性を信じるようになった。
 24歳で結婚したときも2階に借りた小さな部屋にはピアノがなかった。ある朝、突然、運送屋が小型のピアノを運んでくる。まちがいではないかと武満夫妻はいぶかるが、宛先にまちがいはない。それまで一面識もなかった作曲家黛敏郎が、作曲にはどうしてもピアノが必要なのだという武満の不自由な生活を伝え聞いて、夫人用のピアノを送ってくれたのである。これは武満の作曲生活のなかで生涯忘れられない事件となった。
 20歳の時のデビュー曲〈2つのレント〉でも決して忘れることのできない経験をしている。初演の批評を知りたくて新宿で買った新聞を見ると、そこにあったのは音楽評論家山根銀二のたった一言「音楽以前である」。目の前が真っ暗になって、そこにちょうど映画館があったから、切符を買って中に入って真っ暗な中で一人すみっこで泣きたいだけ泣いて、もうおれは音楽をやらなくてもいいと思った、と武満は述懐している。
 この曲には後日談がある。1950年の初演からまもなくして楽譜が行方不明になり、長い間忘れ去られることになるのである。しかし1980年代に入ってから〈2つのレント〉の楽譜は思わぬところから発見される。朋友・福島和夫の家のアップライトピアノの裏、楽器と壁のすき間に落っこちたまま数十年眠っていた楽譜がある日出てきた、それを福島が保存していたのだという。〈2つのレント〉は1982年、藤井一興によって録音されたが、武満は1989年にこの曲を再構成し〈リタニ〉の題名で改作している(ちなみに題名の由来は、レント→連祷→Litany、だという)。
 作曲家としてのスタートとなった〈2つのレント〉から晩年の〈雨の樹素描II〉にいたるまで、 武満のピアノ作品は作曲活動の節目をしめす重要な作品群を形成している。武満にとってピアノがもっとも親しい、もっも身近な楽器であったのであれば、その作品群が作曲家の肉声をもっともよく伝えているように思われるのも理由がないわけはないのである。

(アプローズ453 田村敏久)



Toru Takemitsu (1930-1996)
写真:木之下晃
新潮社刊・武満徹「音楽を呼びさますもの」より

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Takemitsu and Piano