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そのゆるぎない表現に
世界が目を見張った
日本の感性が生んだ
真の国際的ピアニスト
待望の北海道初リサイタル!

P r o g r a m N o t e s


ドビュッシーの世界
 「ぼくはこれまでの音楽を忘れようとしている。そうした音楽はぼくが今知らない、あるいは明日知るかもしれない音を聴く妨げになるからだ」、「音楽は本質的に窮屈で伝統的な形式には収まらないものだということを、ぼくはいよいよ確信している。音楽は色彩と律動づけられた時の流れによって構成されるのだ」、音楽における印象主義の最初のページを開いたとされるドビュッシーだが、新音楽宣言ともとれるこうした発言をみれば、彼の選択した道がたんに印象主義というジャンルに括れないのは明らかであるし、そもそも印象主義の嚆矢となった美術の分野では、たんによくわからない表現手法を揶揄する言い方として「印象」という言葉が使われ始めたにすぎない。むしろ、1867年のパリ万博に出品された日本の絵画や工芸品がこれまでにない斬新な表現手法を用いたものとして大い人気を博し、次の1878年のパリ万博のころにはジャポニズムが一大ムーブメントとなって、印象主義の大きな推進力として働いた事実にこそ注目すべきであろう。ドビュッシー自身、「印象主義」という類型化を嫌い、まして印象主義作曲家を自称したことはない。実際のところ、ドビュッシーこそ、ワーグナーによって極限まで展開されたロマン的機能和声法の壁に窓をあけ、現代音楽への扉を開いたそのひとなのである。
 10歳から12年間在籍したパリ音楽院時代、教科書的な約束事に安易に盲従するのを潔しとしなかったドビュッシーが作曲家として自己のスタイルを確立するのは1893年に作曲した弦楽四重奏曲といわれるが、ドビュッシーが一生書き続け、この天才にとって最も親密であり、かつ最も本質的なものを託されたピアノのための作品になかに、作曲家としての発展の軌跡の全体像を描くことができる。ドビュッシーのピアノの創作は3つの時期にわけられ、その第1期は1888年から1896年にかけて、この間に2つの「アラベスク」や「月の光」を含む「ベルガマスク組曲」が作曲された。第2期は1900年からほぼ10年間の制作。「版画」、「映像」2集、「子供の領分」といった印象主義音楽の名作がつぎつぎ生まれている。そして第3期は1910年以降で、「前奏曲集」 2巻、12曲からなる「練習曲集」を含む。この日のプログラム前半には、ドビュッシーの各創作時期の作品が年代順に並べられている。

アラベスク1番
[アンダンティーノ・コン・モート、4分の4拍子]パリ音楽院ピアノ科ではついに演奏科へ進む資格を得られなかったドビュッシーが本格的にピアノ曲を書き始める時期は意外と遅く、最初に出版された2曲の「アラベスク」は彼が29歳になる1891年の作。アラベスクとはアラビア風の意。表題の由来は、当時流行のアール・ヌーヴォー(=新・芸術)が好んで取り上げた唐草模様(アラベスク)に霊感を得たためとの説がある。1番のアラベスクは、マスネを始めとする後期ロマン派やサロン音楽の流れを受け継ぐ甘く優美な曲想をもちながら、誰よりも端正なたたずまいを感じさせるのは興味深い事実である。

月の光〜「ベルガマスク組曲」第3番
[アンダンテ・トレ・エクスプレシフ、8分の9拍子]「ベルガマスク組曲」は1890年から書き始められており、1905年の出版までの15年間に多くの推敲が重ねられたと考えられる。ベルガマスクとはローマ大賞を受賞して留学したイタリアのベルガモ地方に由来し(さしずめ“ベルガモ地方風”の意か)、全体はマスネ、グリーク、サン・サーンスらの影響を思わせる美しくかつ口当たりのよい旋律に富む一方で、色彩豊かな和声はいわゆる印象主義的な傾向をしめし始めている。その第3番は「月の光」と題され、表題と楽想のわかりやすさもあって、ドビュッシーの全作品のなかで最もポピュラーな作品に数えられる。

映像 第1集
 1905年に書かれ、同年出版された。2年前の3曲からなる「版画」においてピアノの新たな表現方法を探求し、一定程度確立したドビュッシーが、さらに徹底して印象主義的な手法を推し進めた作品である。「映像」というある意味微妙な表題を持つこの作品は、本来おおがかりな仕掛けのもとに構想されたものだった。出版社デュランとの契約書から判然とするのは、当初の「映像」は2編、各編6曲、計12曲からなる大規模な連作として構想され、初編の第1集はそれぞれ3曲からなるピアノ独奏曲(前半)と2台ピアノあるいは管弦楽ための作品(後半)からなり、第2集は前半に3曲のピアノ独奏曲を置き、後半は未定というものだった。結果は各編3曲のピアノ独奏曲がピアノのための2集からなる「映像」となり、初編後半は「管弦楽のための映像」(1912年)となって遺された。
 「うぬぼれからではなく、ピアノ音楽の歴史のなかでシューマンの左かショパンの右に席を占めるだろうと確信しています」とドビュッシー自身が書いたように、この作品はドビュッシーの自信作であり、浮遊する和音のなかに光と陰の微妙な揺らぎが精妙に描かれている。
・第1曲 水の反映
[アンダンティーノ・モルト、8分の4拍子]作曲者が好んで取り上げた水にまつわる曲のひとつ。光と戯れる水の反映、水面に小石が投げ込まれ、その波紋が広がり消えていく。
・第2曲 ラモー礼賛
[レント・エ・グラーヴェ、2分の3拍子]デュラン社からその作品集を贈られ大喜びしたフランス古典派の作曲家、ジャン・フィリップ・ラモーは、ドビュッシーが敬愛した作曲家だった。広大なダイナミックレンジをもつサラバンド。
・第3曲 運動
[アニメ、4分の2拍子]反復して動き回る8分音符、これを3連音符のざわめきが煽り、いそぎたてる。

映像 第2集
 1907年に作曲、翌1908年に出版された。第1集が通常の2段譜で記譜されているのにたいし、こちらは珍しく3段譜で書かれており、それだけ精妙さを増したものになっている。
・第1曲 葉ずえを渡る鐘
[レント、4分の4拍子]ドビュッシーの友人にして彼の伝記作家となった音楽学者ルイ・ラロワ(1874-1944)は、かつてドビュッシーに宛てた手紙のなかで次のような情景を描写していた――万聖節の期間に農民のあいだで鐘を鳴らす習わしがあり、その鐘の音は夕日に照らされ金色にかがやいて沈黙する森をぬけ、村から村に響き渡っていく……。それに霊感を得て書かれたと推察されているが、鐘の音はドビュッシーが愛好したガムランの響きも想起させよう。
・第2曲 荒れた寺にかかる月
[レント、4分の4拍子]第1曲にただよう神秘的な雰囲気はさらに濃密になって、この第2曲全体を覆っている。題名はおなじルイ・ラロワの示唆によもので、作品はラロワに献呈されている。ラロワは東洋の文物をこよなく愛した人物だった。
・第3曲 金色の魚
[アニメ、4分の3拍子]ドビュッシーの仕事部屋に飾られていた日本の蒔絵、そこに描かれた2匹の金色の魚が曲のイメージを喚起したという説がある。飛び跳ね優美に動き回る金魚たち、なかなかつかめないが、すぐに触れそうでもある、金魚を生き返えらせた作曲者はその対立のなかで楽しんでいるよう。名技性の要求される作品である。

12の練習曲集から
 1915年、ドビュッシー最晩年の作。この時期ドビュッシーは直腸癌にさいなまれ、作曲活動は停滞していたが、出版社デュランはショパンの練習曲集の校訂をドビュッシーに依頼した。この仕事が契機となって創作意欲を取り戻したドビュッシーは、最後の力をふりしぼるかのように、「白と黒で」、3つのソナタ、そして「練習曲集」を書き上げるのである。
 作曲当時のドビュッシーは出版者のジャック・デュランに宛てて、おりおりに作曲の進捗状況を知らせる手紙を書いている――「和声の花たちの下に苛酷な技巧をつつみ隠している」、「技巧への興味をかざす一方で、これらの練習曲は、ただおそるべき指をもつだけで音楽に入り込んではならないことをより良く理解できるよう、ピアニストたちを効果的に導くでしょう」――。練習曲と呼ばれる多くの楽曲に通じることとして、演奏技巧にかかわる音楽上の意図があったのは当然としても、単なる練習曲ではまったくないのはこうした作曲者自身の言葉からしても明らかだが、演奏技術を陶冶するためのピアノ書法上の工夫と、それを駆使して微妙な陰翳に富む精緻な響きを持つ楽曲に仕上げること、こうした作曲上のきわめて困難な弁証法をダイナミックに働かせることこそ、ドビュッシーの意図するところであったろう。
 12の練習曲は6曲ずつの2巻に分かれ、各曲にあたえた表題の流れには独特なものがある――第1巻は「5本の指のための」「3度のための」「4度のための」「6度のための」「8度のための」「8本の指のための」、第2巻は「半音階のための」「装飾音のための」「反復音のための」「対位法の響きのための」「アルペジオのための」「和音のための」。
・第1巻 第1曲 5本の指のための、チェルニー氏による
 冒頭はまさにチェルニーの練習曲。だがここではチェルニーはパロディの対象としてのみ存在しているにすぎない。チェルニーからいかに多様な驚きに満ちた音響が引き出せるのかの見本。
・第1巻 第2曲 3度のための
 3度の並行進行による右手が織りなすアラベスク、そこに木訥な左手が組み合わされるなか、ところどころに異質な音響がもちこまれ、変化にとんだ響きの流れが生まれていく。




Claude Achille Debussy (1862-1918)

武満 徹:雨の樹 素描

 大江健三郎の短編『頭のいい「雨の木」(レインツリー)』(1980年)に触発されて書かれた「雨の樹」シリーズの一曲。他には3人の打楽器のための《雨の樹》(1981年)、ピアノのための《雨の樹 素描 II》(1992年)が残されている。
 雨の木(樹)について、大江健三郎の作品の中ではこう書かれている………「雨の木」(レインツリー)というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭のいい木でしょう。………
 《雨の樹 素描》は1982年、フランスの批評家、モーリス・フルーレ(1932〜90)の50歳の誕生日を祝して作曲され、翌年の1月14日に東京で藤井一興によって初演された。武満は初演時のプログラムにこう記している。「大江氏の雨の木は、宇宙木の暗喩として、暗闇の中で雨の雫を降らせ続けているのだが、その豊穣なイメージに到達するための、この曲は、小さな素描(スケッチ)である。」




Toru Takemitsu (1930-1996)
新潮社刊・武満徹 対談集「音楽の庭」から

リスト:ピアノソナタ ロ短調

 「僧服をまとったメフィストフェレス」、晩年のリストを同時代人はこう評している。じっさい、リストの生涯はこうした極端にまで相反する要素によって彩られ、拡大され、引き裂かれている。演奏家としての華々しい活動と瞑想的な隠遁生活、悪魔的性格と宗教的性格、信仰による浄化への激しいまでの憧憬と数多い反倫理的な恋愛行為……。
 演奏家リストの音楽史への貢献は、第一にピアノの超絶技巧の開拓にあり、それは当然のことながら、技巧のための技巧にとどまるものではなく、ロマン的感性と結びつくかたちで魔力的な音楽世界を生み出した。音楽界にヴィルトゥオーゾの称号を定着させたのは、ヴァイオリンのパガニーニとピアノのリストである。作曲家リストは、ピアノの分野においては、その超絶技巧を様式を伝える作品を残すかたわら、印象音楽と呼ぶべき作品を書き、晩年の斬新な和声法は音楽の新時代を予告している。
 1822年、11歳でウィーンでの最初のリサイタルを開催し成功を収めて以来、パリを中心にしてイギリス、フランスの各地で演奏活動を行っていたリストは、1827年に父が死去するとともに自身健康を害し、一時演奏活動を中止する。いまだ10代のこの時期、すでに僧籍に就くことを夢見たという。1839年、記念演奏会のためにウィーンに赴いたのを機に演奏活動に復帰、以来、ヴァイマルに定着するまでの8年間はヴィルトゥオーゾとしてのリストの名声がヨーロッパ全土を制した時代であった。楽旅はヨーロッパ全土にわたり、足跡はトルコやロシアまで及んでいる。そしてその演奏は至るところで熱狂と歓喜を巻き起した。しかし1848年にヴァイマル公国から宮廷楽長として招かれたことを契機に、はなやかな演奏家生活に終止符を打ち作曲活動に専念していく。以後、「ダンテ」「ファウスト」の両交響曲、12曲の交響詩、2曲のピアノ協奏曲などの名作が次々に誕生していくのである。
 このピアノソナタはヴァイマル時代に書かれた傑作群のひとつをなす作品で、シューマンから彼の最高傑作「幻想曲 作品17」を贈られたことへの返礼として、41歳の1852年から翌53年にかけて作曲され、シューマンに献呈された。曲は当時としてはまさに前衛と呼ばれる以外にない革新的な内容を持ち、演奏時間30分にもおよぶ長大な全体は、途切れることなく単一の楽章で構成され、数少ない動機をいたるところに点滅させながら、あたかもひとつの生命体がうごめくように変容を重ねていく。初演時には賛否両論の大論争が展開され、ワーグナーが「美に関するあらゆる概念を超越した作品、偉大にして優美、荘重にして高貴な作品」と絶賛する一方で、反ワーグナー派の急先鋒、評論家ハンスリックは「いまだかつて、これほど支離滅裂な要素が老獪に、しかも大胆不敵につなぎ合わされたものを耳にしたことはない………、これを聞いてかなりの曲だと思うような人は、もうどうすることもできない」などと悪罵の言葉を連ねている。
 現代ではピアノによる表現を極限まで推し進めたチャレンジングな名曲として、ピアノ演奏の重要な試金石となっていて、多くのピアニストによって取り上げられているのは周知の事実である。
 全体の構成は、ごく単純化すれば、レント・アッサイ(きわめて遅く)の静に始まりおなじくレント・アッサイの静に終わる中に、燃えるような憧憬から忘我の狂乱にいたる破天荒とも表現できる激しいダイナミズムが詰め込まれたものになっているが、「ソナタ」の呼称の関係からは、それを3つの部分に分けてとらえ、全体を〈呈示・展開・再現〉のソナタ形式の3部分に見る見方、また中間部分に〈緩徐楽章〉的な楽想が置かれていることから、全体を3楽章からなるソナタと捉える考え方がある。残された手稿から華やかな末尾も構想されていたことがわかるが、リストはそれを捨て、静かな末尾に置き換えることによって、きわめて印象的な作品に仕上げることに成功したように思われる。


(アプローズ453 田村敏久)



Franz Liszt (1811-1886)


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