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フェデリコ・アゴスティーニらが、
深い友情の絆で綴る
楽興のとき!
P r o g r a m N o t e s
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
弦楽四重奏曲 第63番 ニ長調 作品64-5 「ひばり」
6曲からなる作品64の弦楽四重奏曲が作曲されたのは、ハイドンが30年間務めたハンガリーのエステルハージ侯爵家の楽長を、侯爵の死によって退くことになる1790年のことである。この作品は第二トスト四重奏曲と呼ばれることがあるが、それはヴァイオリニストにして後に織物商人として成功するヨハン・トストに献呈されているためである。
ヨハン・トストはエステルハージ侯爵家のオーケストラで第二ヴァイオリンのリーダーを務めていたが、1788年に楽団を辞してパリに出立するにあたり、楽長ハイドンにパリで演奏する交響曲と弦楽四重奏曲の作曲を依頼する。ハイドンはこれに応えて2曲の交響曲と6曲の弦楽四重奏曲(第一トスト四重奏曲)を作曲し、パリでの出版権もトストに与えた。しかしすべての代金が支払われないままの、トストの海賊出版まがいの行為は多少のトラブルを引き起こしたらしい。そうしたトストのために、2年後に第二の弦楽四重奏曲を作曲することになるには、また深いいきさつがあった。
エステルハージ侯爵の死の半年前には侯爵夫人が没し、ウィーンからマドモアゼル・ナネッテと呼ばれた婦人が家事管理人として侯爵家にやってきていた。ハイドンは彼女を「女主人」と呼んでいたというから、楽長ハイドンにとってもマドモアゼル・ナネッテは一目置く存在であったろう。およそ半年の勤めの後、ナネッテはエステルハージ侯爵の死とともにウィーンに戻り、そこでパリからウィーンに帰っていたヨハン・トストと結婚するのである。作品64がトストから依頼された記録は残されていないが、作品の誕生がトストとナネッテの結婚という一件に誘発されものであろうことは容易に想像できるわけである。
作品64の第5番にあたるこの曲は「ひばり」の名で呼ばれ、ハイドンの多くの作品のなかでもとりわけ親しまれる作品になっている。もちろん、「ひばり」のニックネームは後世の勝手な命名にほかならないけれども、「ひばり」の由来になった第1楽章の第1ヴァイオリンのエントリーは、まさにひばりの一気の飛翔を思わせ、そののびやかさ、楽しさ、快さ、みずみずしさ、自由な息使いは、まさにハイドン以外の誰も表現したことがないないものだし、第1楽章冒頭の8小節からなる導入音型が全曲を貫く基本動機になって、楽曲全体が強固な論理のもとに構成されている点も見逃せない。
■第1楽章 アレグロ・モデラート ニ長調、2分の2拍子、ソナタ形式。下3声部による8小節の軽快な伴奏音型のあと第1ヴァイオリンが「ひばり」の主題を奏でる。全体は主題に雰囲気に包まれて進む。
■第2楽章 アダージョ カンタービレ イ長調、4分の3拍子、3部形式。第1部主題も第1楽章冒頭の音型からなる。中間部はイ短調になり、再現部は第1部の構造がそのまま再現する。
■第3楽章 メヌエット アレグレット ニ長調、トリオはニ短調。変化にとんだ緊密な構成を持つ。
■第4楽章 フィナーレ ヴィヴァーチェ ニ長調、2分の4拍子、3部形式。16分音符による無窮動楽想が一貫し、中間部ではニ短調になって対位法的に動く。ふたたび調性が変わり、第1主題の全体が再現し、コーダに受け継がれる。
Joseph Haydn
by Thomas Hardy, 1791
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K. 428(ハイドン四重奏曲 第3番)
1785年、モーツァルトは6曲からなる一連の弦楽四重奏曲を書き上げ、ハイドンに献呈した。モーツァルトとハイドンという天才同志の共振の事例として、それは音楽史上、最も美しくかつ豊饒なものに数えられる。
弦楽四重奏曲のジャンルを開拓し確立したハイドンではあるが、1772年に作品20の6曲からなる「太陽四重奏曲」を書き上げて以来、ほぼ10年間、弦楽四重奏の分野から遠ざかる。それは「太陽四重奏曲」で多用したバロック的手法に限界を感じたためと考えられている。そして1781年、ハイドンは作品33の6曲からなる「ロシア四重奏曲」を発表する。ハイドン自身、「全く新しい特別な方法で作曲されている」と公言したように、それは画期的な意味を持っていた。第1楽章におけるソナタ形式の楽節法は作品33をもって完成の域に達し、古典派室内楽の形式としての弦楽四重奏曲の様式がここに確立したとみることができる。ハイドンが作品33で成し遂げたのは、音を平面に広げるのではなく、4つの弦楽器の音を集め、重ね、つなげていって、完成された美しさを持つ音による彫像を現出させることであった。
一方、モーツァルトも1773年に、これも6曲からなる「ウィーン四重奏曲」を作曲してから10年近く、弦楽四重奏曲の創作から遠ざかっていた。ウィーン移住の1782年の終わり、前年に完成したハイドンの「ロシア四重奏曲」に出会い、モーツァルトは啓示ともいえる深い感動を覚える。弦楽四重奏の創作に興味を失っていたモーツァルトは内発する精神の動きに促されるようにして、1782年12月31日に完成した第1作を皮切りに、およそ3年間をかけて6曲の弦楽四重奏曲を作曲するのである。これらはモーツァルトにとって弦楽四重奏曲の最高作であるばかりでなく、彼の全作品のなかでも重要な地位を占めるものとなった。連作を書き上げた翌日の1785年1月15日と2月12日、モーツァルトはハイドンを自宅に招き、完成させた弦楽四重奏曲を披露した後、次のような心のこもった言葉を添えてこれをハイドンに献呈している。
「わが親しき友ハイドンに。広い世の中に自分の息子たちを送りだそうと決心した父親は、彼らを、幸運によって最良の友となった今日もっとも名高いお方の庇護と指導にゆだねるべきものと考えました。最愛の人にして高名なお方よ、まさにこの意味において、ここに私の6人の息子がおります。彼らは長く勤勉な努力の結実です。その間ひとつのことが私を少し元気づけ慰めてくれました。それは、これらの音楽作品がいつか私にとっての喜びになるかもしれないという、うれしがらせるように私にささやきかける希望でした。最愛の友よ、あなたご自身、この都に最近滞在された時、彼らに対するご満足の意思を示してくださいました。この励ましこそなによりも私に自信を与えてくれたのです。それゆえ私は息子たちをあなたにゆだねます、彼らがあなたのご寵愛にまったくふさわしくないように見えることはないだろうと希望しながら……」
24歳年上のハイドンの「ロシア四重奏曲」とモーツァルトの「ハイドン四重奏曲」を比較したとき、モーツァルトの個性的な特徴としてあげられるのは、作品の規模がはるかに大きいこと、旋律と和声の両面で半音階的動きの卓越性、対位法の広範で有機的な活用、カンタービレな旋律表現など。両天才の個性の違い以上に、そこにモーツァルトの近代性は明らかに見て取れよう。
弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K. 428 はハイドン・セット第3番とされるが、自筆譜、初版ともに第4番に位置づけされていた。最終的に順序が入れ替わったのは、調性と曲想の変化と統一の観点からであろうと推測されている。曲は第1楽章と第2楽章で半音階的な動きが多用され、ロマン派を先取りするような斬新な表現が目を引くが、第3楽章と第4楽章は古典的なたたずまいを見せ、全体の構成は変化に富むものになっている。
■第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ 変ホ長調、4分の4拍子、ソナタ形式。半音階が卓越する第1主題がユニゾンで奏されて曲は開始する。ロマン的な表情の豊かさが特色となっている。
■第2楽章 アンダンテ・コン・モート 変イ長調、8分の6拍子、ソナタ形式。旋律的な表現は抑制され、コラール風の和声が表現の担い手となる。旋律家モーツァルトにはかつて見られなかった方法である。ここでも、その和声を支えるバスの動きは半音階によって彩られる。
■第3楽章 メヌエット アレグロ 変ホ長調。前楽章と対照的な全音階的に動く力強いメヌエット。トリオはハ短調で開始され、なめらかに動いてメヌエットと対比される。
■第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ 変ロ長調、2分の4拍子。ロンド形式の要素を取り入れた展開部を欠く変則的なソナタ形式。全体はハイドン的な明快で健全なリズムと楽想で埋め尽くされる。
Wolfgang Amadeus Mozart
by L. Bode
ルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン
弦楽四重奏曲 第8番 ホ短調 作品59-2「ラズモフスキー第2番」
3曲からなる作品59の弦楽四重奏曲はいずれも1806年、ベートーヴェンが35歳から36歳のときに作曲された。その第1番ヘ長調の草稿には1806年5月26日着手と書かれ、翌年の2月には全3曲の演奏記録があるから、この3曲はきわめて短期間に集中して完成されたことがうかがえる。この作品の注文者であるラズモフスキー伯爵は、したがって前年1805年の末頃に作曲を依頼したと推察されている。
ラズモフスキー伯爵は1752年ペテルブルグに生まれたロシアの貴族で、海軍士官として訓練を受けたのち外交官として国に仕えるようになり、1788年にウィーンで音楽愛好家として知られたトゥン伯夫人の娘エリザベートと結婚、1801年から正式にウィーン駐在のロシア大使に任命された。エリザベートの妹マリア・クリスティアーネはオーストリアの貴族リヒノフスキー侯爵の夫人であり、ベートーヴェンの有力なふたりのパトロン、ラズモフスキー伯爵とリヒノフスキー侯爵は縁戚関係にあったことになる。ラズモフスキー伯爵は裕福で金遣いが荒く、自前で豪邸を構え――1815年に焼失――、蒐集家ならびに芸術のパトロンとして名をはせていた。1808年には名ヴァイオリニスト、シュパンチヒをリーダーに各楽器に名人をそろえた自前の弦楽四重奏団を抱え、自らその第2ヴァイオリンを担当した。この弦楽四重奏団は当時、全欧に並ぶものなしといわれるほどの存在であった。
オーストリアのヴァイオリニストにして指揮者、イグナツ・シュパンチヒ(1776-1830)にも触れておこう。1794年からリヒノフスキー候の弦楽四重奏団を組織し、1808〜16年はラズモフスキー伯の弦楽四重奏団のリーダーを務めたシュパンチヒは、ベートーヴェンとは親しい関係にあった。彼はいまだ10代の1794年ごろ、つまりリヒノフスキー候の弦楽四重奏団を組織しはじめたころ、6歳年上のベートーヴェンにヴァイオリンを教えている――17歳のシュパンチヒが23歳のベートーヴェンにヴァイオリンを教えている図を想像するのは刺激的だ――。極めて太った人物で、その体躯はベートーヴェンが揶揄する格好の対象となった。ともかくベートーヴェンがシュパンチヒの組織する弦楽四重奏団から多くを得たのは明らかであり、彼自身の大多数の弦楽四重奏曲がシュパンチヒによって初演され、ラズモフスキー3曲の初演もシュパンチヒが担当した。ちなみに、シューベルトの八重奏曲や弦楽四重奏曲「ロザムンデ」を初演したのもシュパンチヒである。
ベートーヴェンは作品18の6曲からなる弦楽四重奏曲集を1800年に完成してからまる5年のあいだ、この分野にまったく手をつけていない。その間、ハイドンやモーツァルトの足跡、また一般に流通する音楽様式から完全に抜け出し、1802年ころから爆発的な創作期に入る。この時期の目もくらむような作品群のなかでも一段と光り輝いているのは、「英雄交響曲 作品55」(1803〜04年)、「熱情ソナタ作品57」(1804〜05年)、そして「ラズモフスキー四重奏曲 作品59」(1805〜06)であろう。けたはずれの気宇壮大さ、放出するエネルギーの大きさにおいて、ベートーヴェンにしてもこれらは例外的な作品なのである。
集中的に書かれた3曲からなる作品59の弦楽四重奏曲はそれぞれに独自の偉大な相貌を見せているが、3曲を比較すれば、構成の大きな広がりに特色のある第1番、短調で書かれた内向的な第2番、明るく力強い第3番と、簡略化して表現することができよう。前2者をベートーヴェン中期の特徴的なふたつの面の徹底した顕在ととらえ、その解決点として第3番が登場するという見方がある。いわばこれら3曲はそれぞれ弁証法における正反合に該当するというわけである。高貴な後援者、ラズモフスキー伯爵への感謝の気持ちからであろう、ベートーヴェンは第1番と第2番にはロシア民謡を挿入している。
「ラズモフスキー」の第2番にあたるこの作品の楽章配置は、第1番とは異なって普通のソナタの配置に戻り、第2楽章に緩徐楽章を置き、第3楽章をスケルツォ(楽譜には明記されていない)、終楽章をロンド・ソナタ形式という古典的な形態を踏襲する。そうしたなかに、切迫した繊細な情緒が凝縮されて埋め込まれており、それがベートーヴェンの意図するところだったのであろう。
■第1楽章 アレグロ ホ短調、8分の6拍子、ソナタ形式。fの力強いふたつの和音、長い休止をはさみppで奏される第1ヴァイオリンの流れるような旋律、内向し折り重なっていく精神の活動は、この冒頭部からして明らかである。
■第2楽章 モルト・アダージョ ホ長調、4分の4拍子、ソナタ形式。「最大の感情をこめて演奏すること」と楽譜に記されているように、この楽章は当時のベートーヴェンの心の奥底を明らかにしている。ベートーヴェンの弟子のチェルニーは、「壮麗な星空の下で着想した」と伝えている。深い瞑想の音楽。
■第3楽章 アレグレット ホ短調、4分の3拍子。明記されてはいないが、長調の中間部を持つスケルツォ。ベートーヴェンはその中間部の主題にロシア民謡を持ち込んだ。この民謡は皇帝賛歌として広く知られていたもので、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」やリムスキー=コルサコフの「皇帝の花嫁」にも使われた。最初ヴィオラに現れるロシア民謡主題はフーガの手法で発展していく。
■第4楽章 フィナーレ プレスト ホ短調、2分の2拍子、ロンド・ソナタ形式。これまでの気分を一掃するかのようなリズミックな主題で開始されるが、ここでも繊細で内向的な情緒がその背景を彩っている。
(アプローズ453 田村敏久)
ベートーヴェン
by Brasius Höfel
(1812)
ラズモフスキー伯爵
出典
シュパンチヒ
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