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第3回中田喜直記念コンクール
大賞受賞者の透明な歌唱による
どこまでも響きわたる歌の世界


Composers


レナード・バーンスタイン
LEONARD BERNSTEIN (1918-1990)
ユダヤ系アメリカ人の作曲家・指揮者・ピアニスト。アメリカが生んだ最初の国際的な音楽家。1943年、病気のため指揮不能となった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルを指揮、一躍脚光を浴びた。わが国ではPMFの創始者としても親しい。作品は交響曲から合唱曲、さらにミュージカルと幅広い分野にわたっている。5つの子供の歌「私は音楽が嫌い」が作曲されたのは1942年。この当時、バーンスタインはバレーの伴奏や歌手の指導で稼いでいたが、その休むことのない練習は同居人、エディス・メレルをして「音楽なんて大嫌い!」と言わしめ、それが作品を生むインスピレーションを与えたという。翌1943年出版された「私は音楽が嫌い」はメリルに献呈されている。




レナード・バーンスタイン
LEONARD BERNSTEIN

モーリス・ラヴェル
MAURICE RAVEL (1875-1937)
「ボレロ」の作曲家ラヴェルは、色彩的な管弦楽曲の他にも、ピアノ曲、室内楽、オペラ等の広範囲の分野に作品を残しており、声楽曲にも数多くの作品がある。「5つのギリシャ民謡」は1906年の作。1900年頃からフランスでは民族音楽の研究熱が高まっていたらしい。大学教授カルヴォコレッシは自身のギリシャ音楽の講演で、ギリシャのキオス島の民謡の実演を行おうと考え、そうしてラヴェルに依頼して完成したのが、ピアノ伴奏を伴ったこの「5つのギリシャ民謡」である。詩はカルヴォコレッシの仏訳が用いられている。





モーリス・ラヴェル
MAURICE RAVEL

ホアキン・ドロリーゴ
JOAQUIN RODRIGO (1901-1999)
「アランフェス協奏曲」の作曲家としてあまりにも有名なドロリーゴは、また盲目の作曲家としても知られている。4歳で悪性ジフテリアのため失明したロドリーゴは、地元バレンシア音楽院を経てパリのエコール・ノルマルに留学、大家ポール・デュカスに就いて音楽を修めた。スペイン歌曲の分野にも多大な貢献をしてきた一人で、1947年の作「4つの愛のマドリガル」では、16世紀の宮廷歌曲を適宜に編んで、そこに近代的な効果に富む伴奏を加え、古音楽にもとづく再創造という、彼の得意技を遺憾なく発揮している。





ホアキン・ドロリーゴ
JOAQUIN RODRIGO


南 聡
SATOSHI MINAMI (b. 1955)
東京芸術大学で野田暉行、黛敏郎に師事し作曲を学ぶ。第53回日本音楽コンクール入賞の他、いくつかのコンクールに入選し、作曲家としてデビュー。1986以来北海道在住。北海道教育大学で後進の指導にあたる。1988年、日本現代音楽協会・日本フィル共催のコンサートで初演された「独奏ハープを伴うオーケストラのための《“譬えれば‥”の注解》」によって注目を浴びた。これまで数多くの作品を発表、しばしば演奏され、全音楽譜出版、マザーアース、JFCからピアノ曲集や室内楽の楽譜が出版されている。またCD「南聡作品集ジグザグバッハ」がフォンテックより発売されている。

《4つの歌曲 第2番》への曲目ノート(南 聡)
北海道の4人の詩人の詩を使って、この日のために今年(2007年)
の1月から2月にかけて作曲。詩の傾向も違うので各曲各様だが、前半2曲と後半2曲、またそれぞれが対応した世界になるように配置した。
1.〈オユカゲン〉表谷詩子の詩は細かく単語が分断されて改行していくことによって独特のリズム感を持っていた。その視覚的効果を音楽化することは不可能だが、軽やかなテンポ感と明るい和声的色彩によって表現してみた。たとえば、子供部屋の窓に踊るように張り付けられた童話の影絵たちのように音楽に言葉を張り付けてみた歌。
2.〈残酷(贈物)〉新妻博の「十二月の民俗誌」という詩集より選んで書いた歌曲は、これで4作目になる。言葉各々の意味やメッセージみたいなものは受け取らず、詩全体が作るイメージの色調を受け取って音楽化することを心掛けた。仕上がった曲は大胆な転調を内包しながら、ややメランコリーがかった色合いのなかで、最後にちょっとした忍び笑い的なオチが置かれたものとなった。
3.〈春〉小池温子の詩のイメージは明快で、音楽化する術が自明であった。そのため、逆に音楽は冒険的な意匠を与えてみることにした。それは、不協和な和声様式と、歌とピアノが異なる拍節構造をもつ変拍子のヘミオラによって、待ちに待った春の到来の予兆に対する心象表現として描いた楽想である。最後の部分は「春の挨拶」として音楽の雰囲気を変えている。
4.〈かたくり〉友田多喜雄の詩画集より取る。前3曲よりさらに異質な詩による曲だが、本来あまり歌詞に向いていない文体を持つ詩だけに、音楽の付け方の可能性の創意工夫の機会が与えられてできた曲でもあった。淡々とした表現のなかに春の表情がやさしく、そしてほほえましく写し出されているように感じながら作曲した。





南 聡
SATOSHI MINAMI


南作品の楽譜とCD

橋本國彦
KUNIHIKO HASHIMOTO (1904- 1949)
東京音楽学校(現・芸術大学)でバイオリンと指揮を学んだが、作曲はほとんど独学であった。1934年から37年の間、ウィーンに留学、ベルクの作品やフルトヴェングラーの指揮に触れ、帰国途中のロサンゼルスではシェーンベルクに師事した。帰国後は日本洋楽界きってのモダニストとして作曲家、編曲家、母校の教師として活躍したが、戦後は戦時下の言動に責任を取って一切の公職をから離れた。





橋本國彦
KUNIHIKO HASHIMOTO

中田喜直
YOSHINAO NAKADA (1923-2000)
中田喜直といえば「ちいさい秋みつけた」や「めだかのがっこう」「夏の思い出」など数々の名曲を生み出した作曲家として知らない人はいないであろう。「早春賦」の作曲家、父・中田章のもとで幼時から音楽に親しみ、小学生のころからすでに作曲を始めていた。東京音楽学校にはピアノ専攻で入学、ピアノ曲も作曲しているが、とりわけ歌曲の分野にすぐれ、合唱曲にも多くの名曲を残した。





中田喜直
YOSHINAO NAKADA

山田耕筰
KOHSAKU YAMADA (1886-1965)
作曲家、指揮者、教育者、著作家として日本における西洋音楽の普及に貢献した功績はきわめて大きい。東京音楽大学声楽科を卒業、1910年から3年間、ベルリン音楽学校作曲科に留学、1917年には渡米し、カーネギーホールで自作の演奏会を開いた。1924年には現在のNHK交響楽団の前身となる日本交響協会を設立している。作品は多岐にわたり、歌曲、童謡からオペラ、交響曲、交響詩、さらには軍歌、校歌まで、膨大な数にのぼる。1920年代に北原白秋と交わり、詩と音楽の理念的融合をはかって日本語のアクセントと語感を尊重する芸術的歌曲を創造していった。それら歌曲にこめられた命がいまもって新鮮さを失っていないのは驚くに値する。





山田耕筰
KOHSAKU YAMADA

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