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| 前々日のリハーサル。会場は旧北洋銀行ビル、現在は無尽ビルの3階貸ホールで、仮オープン時期ということで格安で借りることができた。 |
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| 床のタイルはあちこち破損していてほこりっぽいし、おまけに暖房機は故障ということで、お二人ともマスクを付けての演奏。「これ付けてるだけでも結構あったかいのよ」と廻さん。響きはいいので、本オープンまでにはせめて床を改修してもらいたいが、その予算はなしとか。ああ‥‥。 |
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| 当日のリハーサル。調律の水島さんは、前回の経験を踏まえ、演奏者の位置をおよそ60センチ位奥に移動。音の響きは一段とふくよかになったように思った。今回も譜めくり役は川原安紀子さんにやっていただいた。 |
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| 演奏者の衣装は前回とは一変して、ご覧のよう。それにしても、女性の演奏家は大変ですな。 |
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| 打ち上げは、マリンホールから歩いて5分の位置にある、鳥の空揚げで人気の「なると」で開催。清水さんのお友達やら、札幌方面から多くの方に参加していただいた。 |
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前々日のリハーサルには都合で行くことができなかった私にとって、シリーズ第2回のこのコンサートは、ピースウォークから始まった。我が配偶者と共にピースウォークに参加するため事前に腹ごしらえをしようと、オーセントホテルのレストランに向かった。そこで食事中の清水さんと廻さんにお会いしたのだった。こうしたお姿を拝見していると、とても、あの崇高なモーツァルトの演奏をなさる方々には見えないのが、いつものことだが不思議だ。この日のランチの目玉はデザートバイキングであった。一応というかまったくの食べ放題であった。これがなかなか美味しくて、左党の私にして、プチケーキ数個とカップ入りムースを食べてしまった。清水さんと廻さんをちょいと拝見したところ、これからリハーサルを控えたご両人にしては、ささやかな量のデザートであったような気がした。もっとも、私たちが先に失礼したのでその後のことは知る由もない。翌日に本番を控えたリハーサル前の一風景であった。演奏者に会ったそのことで、私の意識はコンサートモードに切り替えられたのだ。
連続演奏会第2回目のこの日の演奏は、1曲目のソナタハ長調K.296の最初からして、予想を見事に覆されてしまった。これはどうしたことだろう、フォルムのしっかりした揺るぎのない気品をたたえたモーツァルトであることには変わりはないのであるが、ある意味挑戦的ともいえる情熱をたたえていた。前回の演奏を聴いた印象から来る予想を軽くかわして颯爽たる推進力を持ったモーツァルトだ。乱暴な言い方なのは承知で言うが、先回の演奏は端正なという形容の中に納まる演奏ではなかったかと思う。だがどうだ、今回は最初からパワー全開である。お互い手の内を知り尽くした相手に自分の音楽を遠慮なく主張し音にしていく、その絶妙なバランスの上にこの日のモーツァルトは形成されていった。
ところで、今回はステージの演奏者の位置を1メートルほどステージ後方に下げたそうで、前回の華やかな響きが少し整理されていて、その良さを残しながら鮮明さを増した音であった。フォルテで音が途切れる部分では長めの残響がきれいに空間に消えていったのが印象的であった。第2楽章アンダンテ・ソステヌート、廻さんのピアノがここではモーツアルト大好物であったチョコレートを思わせる甘さを提供する。それも、ウィーンやザルツブルクのあのお土産のモーツアルトチョコレートではなく、当時ウィーンで流行っていたという、カップで飲む温かく甘いチョコレートだ。飲んだことがあるわけではないのだが、固形のチョコではとても想像できない滑らかな甘さが漂ってきた。ほろ苦さをもたたえながら。そうそう、もしかしたら、これはあのモーツァルト・リキュールの風味かもしれない。
2曲目のヘ長調K.377、これも凄かった。モーツアルトは変奏曲もさまざまな様相をその中に織り込んでいておもしろいのだが、次々と展開される諸相の入り組んだ音楽の渦になすすべもなく引き込まれる。だが、しかし、それでも受身一方のように思えた私にも多少のゆとりが無かったわけでもない。ふと我に返っては、二人の演奏に角度を変えて接近を試みる。
時として、清水さんと廻さんのモーツアルトは微妙に異なった方向性を示すことがある。前回もなんとなく感じてはいたが、今回はそれが、さらに顕著に現れていた。二人の個性がより明確に表れた結果であろう。清水さんのヴァイオリンは端から端までモーツァルトであり、どこをとっても混ぜ物の無い、そんなものがこの世に存在するのかは別として、いわば生粋の24金プラチナのモーツァルトである。対する廻りさんのピアノはさまざまな表情のモーツァルトを聴かせてくる。あるときはショパンが頭の片隅をかすめて通り、また、ある部分ではスカルラッティがこぼれ出る。もしかしたら、ショパンもシューマンもモーツアルトの曲を鍵盤上で様々にころがしてそれを叙情的に時代背景とともに膨らませていったときに、それぞれの新しい音楽が生まれていった。そんな展開を夢想させるような、表情豊かなピアノを聴いた。夢想といっても、前回のように寝ていて想ったわけではない。むしろ、起こされ続けた。迫真の演奏に、寝る間がなかったというのが正直なところか。
休憩時間アプローズ代表の田村が目を赤くしていた。演奏を聴いて「泣いた」のだそうだ。この場合「はらはらと落涙する」とかいう客観的な楚々とした表現は似つかわしくない。いや、田村に似つかわしくない、のではない。ここははっきりと「泣いた」でなくてはいけない、うまく言えないが、そんな気がする。田村を泣かせる演奏。そうそうあるわけではない。それどころか、普段はなかなか満足のいく演奏には出くわさないため、注文をつけることのほうが圧倒的に多い。そんな彼を泣かせたのがこの日の演奏である。こんな風に茶化してはいけないと思うが「鬼の目にも涙」的な感動的なシーンであった。「泣いた」と実に率直にいわれては、こちらとしては続く言葉があろうはずがない。
後半1曲目はホ短調K.304。数多いモーツァルトのヴァイオリン・ソナタの中でただ1曲の短調の曲であるそうだ。それゆえに、おろかにも、いかにも短調という表現をそれとなく期待していた私はここでもさらりと体かわされてしまった。最後のソナタも変奏曲を持っている。前半のインパクトがあまりに強かったためか、この崇高な曲をむしろ淡々と聴いてしまった。
昨今の、新しさを追い求める軽快すぎる演奏とははっきりと一線を画した、充実した大人の音楽を堪能することができた。
アンコールは歌劇「魔笛」から、パパゲーノのアリア「恋人か女房がいれば」である。最初に鳴った華麗な鈴の音グロッケンシュピールを模したピアノの音にハッとさせられる。これは以前にこのシリーズに先駆けての「ルタオ」のトークコンサートで清水さんが演奏した曲とおもうが、そのときはヴァイオリンのソロであったので、ピアノによるグロッケンシュピールの音が新鮮であった。前回に続いてだがモーツアルトのアリアをヴァイオリン独奏で聴くのも実に楽しくていいものだ。いよいよ第3回目の次回の演奏も、それは楽しみなことである。「魔笛」の中に出てくるのは魔法の笛だけではない、このグロッケンシュピールもこの鈴の音を聞けばどんな悪人でも猛獣でも踊りだすという、これも魔法の鈴なのだ。どこかの大統領をこの鈴の音で踊らせたら、たちまち戦争を起す気も失せてしまうにちがいないのだが。
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